早稲田実業学校初等部 成蹊小学校 桐朋学園小学校
東洋英和女学院小学部 東京女学館小学校 国立音楽大学附属小学校 川村小学校
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今週の3歳さんの時間。
「春ですね。もう少し暖かくなると、海では潮干狩りができるようになりますよ。海に行ったことは、ありますか?」 「はい!」と元気にお答えができました。
「そうですか。潮干狩りって、知っていますか?」 こちらは、ちょっと知らないな、という表情。こども用の春の図鑑から、潮干狩りの様子の絵や、図鑑の貝類の写真をお見せします。「あ、貝だぁ、知ってる知ってる!」「しましまのが、いい!」と、こどもは、のぞきこんで、指をさしてくれたりします。
「今日は、本物のあさりが、ありますよ!」という声をかけると、こどもの目が一気にに輝きます。「えええ~! 本物?!」「すごい、すごい!!」
おうちでも、召し上がっているであろう「あさり」ですが、図鑑を見たり、お話聞いたりした後の「あさり」は、違うものに見えるようです。
ザラザラした貝の感触や、海のにおい、硬い貝殻の質感を味わいました。開かない貝を必死で、開こうとして「開かない~! 固いよぉ」と不満そう。
「いつも、お味噌汁でいただいているあさりは、開いているかしら? 閉じているかしら?」と尋ねると、「開いているよ。これは、どうして開かないの?」と。
「貝殻の中の、あさりさんは、生きていて、開けないで、って必死に閉じているのよね。でも、お鍋の中でお味噌汁を作るために煮ると、パカッと開いて、おいしいお出汁が出るのよね」「ええ。そうなの~?!」「お母さまに、あさりのお味噌汁作っていただいてね」の言葉に「うん!」と期待に満ちた表情のお返事。
後日、お母さまにうかがうと、これまではそんなに好きでもなかった、あさりのお味噌汁をお代わりしたとのこと。あさりのうまみや香りを味わって、とびきり満足そうだったそうです。
き っとこれからの季節、行楽のひとつで潮干狩りにお出かけのご家族もいらっしゃると思います。そんな時、「あ、これ、知ってる! あさりだ!!」と、記憶がつながっていけるとうれしいと思います。自分で探して、自分で捕ったあさりは、これまた、心に残るおいしさになることでしょう。
オクスフォード大学のエレーヌ・フォックス教授による「悲観脳と楽観脳」についての講義を聞きました。こどもには、できるなら楽観的であってほしい、あまりクヨクヨせずに果敢にものごとにチャレンジしてほしいと願うところがあり、どうしたら、楽観的になるのだろう?という個人的な興味があったからです。
イギリスでのあるエピソードが紹介されました。非常に楽観的な娘と悲観的な娘をもつお父さんの話です。クリスマスに、実験をしてみました。楽観的な娘の部屋には、馬糞をまき散らし、悲観的な娘の部屋には、本人のほしがっていた電子端末、タブレットやゲーム機器、携帯電話などを置いておいたのです。翌朝、そのお父さんは、しょげて泣いている悲観的な娘に「どうしたんだい? 欲しかったものをプレゼントしてもらったのに」と尋ねると「こんなにたくさんあって、どれも電池の形が違うし、説明書を読まなければならない」と嘆いている。一方、馬糞だらけの部屋の楽観的な娘は、にこにこと笑って喜んでいるので「こんなに馬糞だらけで、なんで喜んでいるんだい?」と尋ねると、その娘はキラキラした目で「だって、このおうちに馬がいるのよ!! 素敵だわ」と答えたというのです。さて、どちらの娘さんが魅力的でしょうか? 楽観的すぎるのも心配ですし、悲観的なのは、リスク管理の考えができるととらえることも、できそうですが。
エレーヌ教授は、人が悲観的になるのも、楽観的になるのも、それぞれの経験や考え方に対して、認知バイアスというゆがみが生じることについての研究の第一人者です。
なぜ、人は、悲観的だったり、楽観的だったりするのか?
研究のなかで明確になってきているのは、危険を察知したり、自己防衛のための悲観的な考え方のほうが、強めに感受されるようにできていて、ものごとの楽しい側面をとらえる楽観的な考えは、やや弱めであるということ。
つまり、元来、恐怖を回避するため悲観的に傾きやすい。平たく言えば、怖がりで慎重な状態から、楽観的な勇気のある状態に育てていくためには、多くの楽しいこと、心地よいこと、安心できる環境が必要。ものごとのとらえ方をポジティブに向けていく、日々のことばのかけ方がとても重要なのです。
イギリスつながりでいえば、シェイクスピアは「ものの良し
悪しは、考え方ひとつで決まる」と「ハムレット」で書いているように、客観的事実よりも、「本人にとってそれがどういうことなのか?」が、とても大切です。
こどもにとって、「コップの水をこぼした」のは、「水の様子を知る実験」だったかもしれないし、「水に触りたい欲求」だったのかもしれない。けれど、大人の目線で、「部屋をよごす」「服を濡らす」行為と決めつけて叱責するのは、どうでしょうか。
長い人生のスタート期間は、ものごとのとらえ方の根っこを育てる時間です。こどもの行動を大人の論理で測るのではなく、こどもの意図を想像しながら、こうしたかったのかな? これを確かめたかったのかな?と寄り添うことで、こどもにとっての日常がわくわくするような驚きや喜びに満ちてほしいと願います。
そもそも発達しやすい悲観的なものの見方ではなく、わくわくしながら学ぶ楽観主義のこどもを育てていきたいと考えています。
「食事中に、3歳の息子の手がコップにあたって、落としてしまいました。故意にではなくて、まちがって落としてしまったんです。息子はわたしに、『拾って』と言うのですが、こういう場合に、わたしが拾った方がよいのですか? それとも、自分で拾わせる方がよいのですか?」
こういうご質問をいただきました。みなさんなら、どうお考えになるでしょう。次の3択ならば、どう対応されますか?
① 落とした息子さんが、拾うように声をかける。
② 拾う前に、落としてしまった不注意について声をかけ、拾うように促す。
③ ご父兄が拾う。
そのお食事中、こどもがどんな様子であったのかにも寄りますので、お答えについての明確な正解不正解は言い切れません。例えば、何度もコップを落とすことが続いているなかでのことなのか、たまたま今回は食事に夢中になるあまり、コップに気がつかない状態だったのかによっても、声のかけ方は異なりますね。
今回のご質問の状況をおうかがいすると、コップを落とすことが続いているなかでのことではなく、後者のような、今回が初めてのコップの位置が手の後ろにあったことで、当たってしまったとのことでした。その場合の声かけとして、わたしであれば③を選びたいと思います。
その理由は、こういうことです。コップが手に当たってしまうような位置にあるのを見逃してしまった責任は、大人の側にあるから。3歳のこどもに、そのコップの位置を配慮させるのは、まだ、むずかしいと思うのです。これが5歳のこどもであれば、「その場所にコップがあると、落としてしまうかもしれないから、場所を移動させましょう」と事前に声をかけます。
また、「落としてしまった人が拾う」という常識のようなものは、一見とても正しいようにも思いますが、この場合には、「落とさせられてしまった人が拾わされる」という感覚をこどもが持ってしまいかねません。
「落ちてしまったコップが、割れたりしないでよかったわね」というポジティブな受け止め方をしながら、「ごめんなさないね、こんな場所にコップを置いておいたら、危なかったわね」と声をかけることで、こどもは素直に、あやまって落としてしまったことへの反省の気持ちを持つことができるのです。
このようなやりとりのなかで、こどもは、おともだちの過ちにも寛容に対応できる気持ちの余裕を持つこと、落としてしまったおともだちに対して「けががなくてよかったね」と思えること、そして、自分から拾ってあげられる行為が出るきっかけを学んでいくのだと思います。
大人もそうですが、こどもは正しいことばかりをして、成長することは不可能です。まちがったり、うっかりしてしまうことの中から、反省し、次はまちがえないようにやろうという気持ちを育んで、いろんなことが上手になっていきます。
こどもの失敗を指摘するのは、大人からすれば簡単なことですし、ある意味、きちんとしつけているような錯覚に陥ります。大人は指摘した達成感を感じるかもしれませんが、こどもには、「え? ぼくのせい?」という気持ちを残しながら謝るという、違和感が残ってしまいます。ひとつの失敗に対して、何が悪かったのか、どうしたら次はうまくいくのかを、親子で気持ちを共有しながら、次の機会に「うまくいった!」という達成感が共有できるためのステップにできると、いいなと思います。
待望のわが子との対面。
10か月の妊娠期間を経て、つわりの予期せぬ吐き気や食欲不振からくる倦怠感、小さな命を守らなければという緊張感と不安のフィニッシュを喜ぶ間もなく、育児はスタート。
育児書や情報のなかで得られる知識は、ガイドラインのようなもの。今、目の前のこの子にぴったりのことなのかを見極めるのは、主に母親の判断にかかっています。けれど、その母親だって、初めてのこと。果たして、この泣き声が、体調不良なのか、ただの空腹の訴えなのか、おむつが不快なのを知らせてくれているのか、眠いのか。
手探りで小さな命を守り育てることは、疲労の蓄積も未経験の質や量になります。寝る時間も自分の思いのままにならない24時間体制だから、なおさらです。
「よりよい母でありたい」という理想と、「そうなれているのだろうか?」の不安の間で、いつも揺れている方も多いことでしょう。
このような母親だけが育児をするような社会になったの、ここ100年くらいのこと。それまでは大家族で暮らし、たくさんの手があり、母親が目を離す時には、乳母や祖母、使用人や母親の姉妹、その子の姉妹などが、子守りをしていたものでした。
母親ひとりで、その子の命の責任を100%負う現代は、当事者にとってみれば、なかなか厳しい社会だと言わねばなりません。社会の役にたつ仕事をもっていれば、さらに、時間的にも体力的にも厳しいはず。かといって、最愛のこどもの成長、教育にとって、よい環境も与えてあげたい。一緒に居られる時間が限られているのだから、離れている時間は、充実した楽しい時間を過ごしてほしい。かつて、わたしも仕事と育児と家事の追われて、毎日なんとか、すべきタスクをぎりぎりまわすような日々でした。深夜、ようやく翌日の朝の食事や登園準備を整え、ベッドに倒れこんだところを娘に起こされて遊んだり、というような。
そんな厳しさのなかで、頑張っているお母様たちに、少しでもお役にたちたいと心から思っています。わたしが、周りの多くの方の手をお借りできて、ここまで来られましたように。
たくさんのご家族様とお話しをさせていただく機会がございました。
お父様に「お嬢さんは、どんな風に育ってほしいですか?」とうかがうと、花嫁姿をご想像されているのか、涙ぐまれ、日頃社会的にご活躍のお父様とは違った、想いがいっぱいの表情にこちらも胸が熱くなりました。
お母さまに「お子様が生まれから、これまで、いかがですか?」とうかがうと、「主人とともに、息子の笑顔でごはんを食べる姿を眺めながら食事をする時間は、何ものにも代えがたく、幸せな気持ちでおります」と、涙ぐみながら笑顔でお答えいただき、隣でニコニコとお母様を見上げる息子さんの頭を、お父様が撫でている姿に、すてきなご家族だなぁと心が温かくなりました。
「育児のなかで、困ったこと、悩まれたことは、ございますか?」とうかがうと、「先人の知恵を拝借しながら、周りの方にお世話になりながら感謝の気持ちで乗り越えてまいりました。試練の先には、必ず、明るい希望が待っていますから、これからも、ひとつひとつ乗り越えていきたいと思っております」と明るく強くお答えいただいたのも、とても印象に残っております。
お母様の「こどもが暮らしのなかで心躍らせる瞬間をキャッチして、両親で喜んでまいりました」という言葉にとても共感し、その言葉を裏付けるように、表情豊かで好奇心旺盛そうな、輝く瞳の2歳さんに心魅かれました。些細な日常のなかには、キラキラと輝くような善意や、発見や、成長が詰まっています。それらを大切にしてこられた様子がとてもよくうかがえました。
大切なおこさまだからこそ、目の前のこどもが、「何をどこまで理解できているのか?」「どうやったら、身につけることができるか?」を常に考えながら進めております。こどもに相対するときは、こどもが主役。その主役が輝くように、学びの時間が「ああ、おもしろい!」「これ、たのしい」「わかった」となりますように。素直なこどもの「!」という瞬間を共有できることが何よりうれしいことです。
「お受験」という言葉は、首都圏特有の単語かもしれません。
そこには、幼稚園や小学校に入るために、幼い子らが母親に付き添われて、遊ぶ時間を削ってお勉強を強いられているイメージがあるように思います。確かに、狭き門をくぐろうとすれば、努力は必要です。
けれど、その努力は、幼い子らにストレスをかけるようなもので、よいはずはありません。そんなことをすれば、まだまだまっすぐな表現をしているこどもの表情に陰を落とすことでしょう。それは、こどもを見る目を養っている試験官の先生には、見抜かれてしまうはずです。
立場を替えて考えてみましょう。学校側は、どんな生徒をほしいのか? 頭の回転が速い生徒? 運動能力の高い生徒? 絵がとてもうまい生徒?
きっとそれは、能力が高いだけの生徒では、ないはずです。特に幼稚園や小学校の学級運営を考えれば、楽しく遊べる生徒、お友達と協力できる生徒、失敗した時に素直に謝れる生徒、うそをつかない生徒。などなど、学校方針に掲出されている内容がそのものであると思います。そう考えれば、当たり前のことが当たり前にできるこどもが望まれていることに気がつくと思います。
ですが、この「当たり前」というのは、あくまで、大人の「当たり前」。「当たり前」の内容にあたる、あいさつができる、素直に謝れる、だれとでも仲良くできる、という社会性を身につけるのには、それなりの社会経験が必要です。気持ちよく、お友達や周りの人と過ごすことができるためには、自分のわがままを押し通すことができないことを知ったり、相手の立場になって考えたり、感じたり。それを、野良犬のように自分で傷つきながら覚えるのではなく、周りの大人に守られながら、教えてもらいながら、少しずつ学ぶ機会が必要です。そして何より、それを学ぼうとする姿勢、相手を思いやるだけの心の余裕がある満たされた状態が、幼いこどもには、必要だと感じます。
幼いこどもにとって、自分のわがままを通すことよりも、相手と仲良く遊べることを選ぶようになるには、それなりの発達のための時間と経験が必要です。1歳2歳の段階でそれを押し付けても、まだまだ自分のことで精いっぱいで、とても受け止められません。早い子で2歳の後半から、徐々に目覚めていきます。それを待つのも周囲の大人の知恵。そのこどもの段階により沿った、声のかけかたが大切です。
「お受験」で見られる、お友達との関わり方は、決して不自然なことではなく、「ああ、このこは、お友達と仲良く遊べるんだな」とか「困っているお友達を助けてあげたいという気持ちが育っているんだな」という「当たり前」ができているかのチェックだと感じています。
長い人生を考えれば、お友達とうまく関われない人とも関わる機会があるのだから、上手に関われるお友達に囲まれるのは、むしろマイナスだとお考えの方もいらっしゃるでしょう。ただ、どちらにも一長一短はあるもので、協力しあえるお友達とともに作り上げる遊びや、創作物、活動の中で得られる満足感、達成感を幼いうちにしっかりと味わうというのは、他人に対する信頼の気持ちや、ひとりでは成しえないことができる感動をもてることにつながり、一生の財産になるように思うのです。
「お受験」は、学ぶ途上でのひとつのきっかけであり、そのきっかけを生かす教育もあれば、それに代わる良質な教育もあるはずです。当教室では、「お受験」のよい部分を取り入れながら、受験を視野に入れているご家庭と、そうではないご家庭との両方のおこさまが通われています。それは、幼児期に身につけておくと良きことは、受験をするしないに関係なく、とても大切なことととらえていらっしゃるご家族様とご縁をいただいているからにほかなりません。
「KY(空気を読まない、読めない、察しが悪い)」ということばが、最近、よく使われています。主語を抜いて話す表現が多く、「あれ」「これ」などの指示語を多用する日本語は、英語に比べれば、非論理的な表現が多く、それこそ「空気を読まない」と、理解がしにくいことばです。「男は黙っているほうが、男らしい」とか、「女性も、おしとやかで、口数の少ない人がいい」などという文化も、こういうところから来ているのかもしれません。「無駄な議論」「おしゃべり」という表現にあるように、ことばを尽くして話し合ったり、コミュニケーションを多くとろうとすることがマイナスなイメージにとられるのも、似ています。「沈黙は金」ということでしょうか。
ただ、こどもと接する時には、どうでしょう? これからことばを獲得しようとしている幼児と対しているときには、ことばを教える意味もあるので、ことばをかけて、指し示して、教える必要がありますね。でも、これも、あまりに熱心すぎて、こどもが辟易するほどに、ことばのシャワーをかけるのは、いかがでしょうか。ましてや、大人が幼児語を使うのは、すてきに見えない場合もあるかもしれません。
日々の暮らしのなかで、周りの大人が発することばを、こどもたちは、模倣して学びます。美しい日本語を、多く聞かせてあげいたいものです。そして、穏やかに、こどもが聞く状態を作ってあげてから、具体的にわかりやすく、ゆっくりと話してあげたいと思っています。
たとえば、「静かにしなさい」と言う前に、こどもたちにとって、静かにすると、どんないいことがあるのか、何のために静かにするのか、を知らせることができれば、強制的に静かにさせられるのではなく、主体的に静かにしようと動けるのではないでしょうか。「これから、おもしろいお話をしますよ。お話を聞きたい人はいますか?」とか、「そろそろ、おやつの準備をしませんか?」とか。こどものモチベーションに訴えることばをかけていきたいと、日々思っています。
また、幼いこどもは、時に危険なことを危険とわからずに、やりたがるものです。平均台のような細い塀の上を歩きたがったり。でも、これを見つけて「あぶない~~~!!」と叫ぶような感情的なことばを発するのは、よけい危ない状況を作ってしまっているように思います。あわてたこどもは、このことばによって、しなくてもよい怪我をしてしまいかねません。ここは、お腹に力を入れて落ち着いて「気をつけてね。注意しながらね」と静かに威厳のある声をかけて、そばに寄り添って、いつでも手を差し伸べられるようにしてあげたいと思います。このような状況は、こどもの勇気や器用に平均台を走りぬける運動能力の発達には、マイナスではないはずなので。
よくあるのは、こどもがうっかり「飲み物をこぼしてしまう」時に、「ああ~~!」と大きな声をかけてしまうこと。つい、出てしまいますよね。でも、ちょっと待ってください。こぼすようなところに飲み物を置いている時に、声をかけてあげられなかったのは、大人の責任ではないかしら。だとしたら、「ああ~~!」の声のなかに、こどもを責める気持ちをこめずに、「自分がこぼさせちゃった!」の気持ちがこめられているはず。それであれば、よいのですが。こぼすような「うっかり」は、こどもに限らずあるのに、「こどもだから、教えなければ」と、よけいに怒られているような気がすることもあります。大人がこぼしても、そんなに「ああ~~!」とは、言われないのではないかしら。むしろ、周りは、「だいじょうぶですよ」と気をつかってくださる(笑)。こどもがこぼしても、大人がこぼしても、等しく、その状況に応じて、静かに「拭きましょうね」と後始末ができれば、よいな、と思います。過失をことさらに広げることなく、残念なことだけど、仕方なかったこととして、さらりと流したいと。おそらく、こどもは、こぼしちゃった「びっくり」と「なくなってしまった悲しみ」とで、充分反省できていると思うのです。
テレビのCMなどで、清潔、除菌といったことが、わたしがこどもの頃よりも、多くなったような気がしています。清潔の概念は、人によって、その度合いは、いろいろです。「きたない」ことを排除しようとすることは、ときに、行き過ぎると、排他的な苦しさもはらんでいるように感じます。自分自身も生きている生物として、菌を内包しているわけですし、大きくとらえれば、自然の一部として、菌も、虫も、動物も、わたしも在るわけです。不用意に「きたない」ということばは、日常のなかで使いたくないなぁと思います。「きたないから、きれいにしましょう」と言うよりも、「洗いましょう」「さっぱりしましょう」のほうが、しっくりきます。
ことばは、人を励ますことができますし、傷つけることもあります。また、意図とは違った内容が伝わってしまうこともあります。美しく、正しいことばが話せるのはもちろんですが、こどもと関わる大人として、ことばが持つ力を、今一度、考えてみる時間を大切にしたいと思っています。
書店で、「ほめて育てましょう」という育児の本をよく見かけます。感情的に怒るのではなく、冷静に叱るのが正解で、ほめる機会を多く育てるのがいい、ということもよく耳にします。
でも、わたしは「ほめる」という言葉のもつ、上の者が下の者を評価するような雰囲気に、違和感と、小さな嫌悪感をもってしまうのです。「天は人の上に人を作らず」ということばが好きだからでしょうか。
「ほめられたくて」頑張るなんて、けなげすぎて、胸がきゅんと痛くなります。もう存在しているだけで、そのこどもは、充分すばらしいのに、と思ってしまいます。
「ほめられたくて」頑張っているのに、うまくいかなかったら、その子はどうやって、その先頑張ればよいのでしょう。わたしは、「ほめる」のではなく、「いっしょに喜ぶ」という気持ちで、こどもと接したいと思っています。
うまくできたら、「いっしょに喜び」、うまくできなかったら、「いっしょに悩み、いっしょに考え、いっしょに次に向かう」。そうしたら、うまくいかない時にも、こどもと心が離れないし、うまくいかない落ち込んだこどもを、ひとりぼっちにしないでいられるかな、と思うのです。
「ほめる」なんて、単に先に生まれただけのわたしが、おこがましい。ひとりの人として、年少のこどもも、リスペクトをもって接するのが、当たり前かな、と考えています。多少、知っていることが多くて、できることがあったとしても。「ほめる」ではなく、「よかった!」「うれしい!!」といっしょに喜びたいのです。
「お手伝い」という言葉のもつ「補助的」なイメージは、いつも主役でいたいこどもにとって、うれしい響きではないように、感じています。
こどもは、いつだって、主人公。脇役では、張り切ることができないようです。お手伝いではなく、仕事としてやってもらう。家族は、その仕事をありがたいと感謝する。そうすると、こどもは、もっと喜んでもらいたくて、意欲的にがんばる。仕事の上達をいっしょに喜び、こどもは、家族の一員として役に立っている自分に誇りをもてるようになります。
お手伝いの初めは、よけいに散らかってしまうことも多いもの。それは、想定範囲内と笑顔で迎えたいもの。初めから上手にできるはずは、ないのだから。やる気をもってやろうとしている気持ちだけでも、うれしいと思いたい。いっしょに家事を親子でできる時間を楽しめること自体に感謝してみては、どうでしょう。
あくまで、こどもの目線で見て、考えてあげたいものです。周りの大人は、心から「助かったわ」「ありがとう」と声をかけて、その気持ちをこどもは、受け取ってほしい。そういう気持ちの循環が、こどもの成長の栄養になるのではないでしょうか。
また、大人(母親に限らず、父親も)が、掃除や料理、洗濯などの家事を楽しんでいることも大切なことだと感じています。「楽しそうなこと」=「こどももしたいこと」ですから。スマホ、リモコンを幼児が触りたがるのは、大人たちが使っているシーンをよく目にするからです。リモコンの取り合いではなく、家事を取り合いするような親子になれたら、素敵ですね。
20代の編集者時代。香港の大富豪マダムを取材する機会がありました。「子育てで、いちばん、大事にしていることは何ですか?」と質問すると「娘の味覚を洗練させることです」と。「本物のおいしさを知ることで、人生は正しい方向に向かうのです」と。まだ若いわたしには、マダムのおっしゃった意味は、よく理解できていなかったと思います。
こどもを育てることになり、その言葉が何度も頭をよぎるようになりました。「味覚を洗練させる」とは、どういうことなのか?
そのために、自分なりに考えて実践。だしは、毎回きちんととる、ふりかけもパンも、できる範囲で自家製にしてみる。おやつもなるべく手作りのものを用意して市販のものを食べさせるときには、吟味。おかずは、健康的な材料を、良質な調味料で控えめに味つけし、なるべく鮮度のよいうちに食べさせる。ごはんは、毎回炊きたてを用意して、できるだけ汁椀も添える。
気がつけば、一見、地味な昔ながらの食卓になりました。蒸した野菜が増え、魚料理が増え、あさりやしじみ、季節の野菜の味噌汁にごはん。おやつも、蒸しパンだったり、さつまいもの天ぷらだったり、季節のくだもの。
そういえば、贅沢な宿の朝ごはんのようなイメージでしょうか。手間はかかっているけれど、豪華ではない、しみじみと日本人でよかったと思えるような食事。海苔のパリっとした歯触りや鼻にぬける香りを楽しみ、焼き魚のふっくらとした塩けのある身でごはんを食べ、だしと味噌のうまみを感じる味噌汁をすする。
毎日食べることで、舌と頭が記憶する「おいしさ」。工場で作られる加工食品の便利さと引き換えに、「おいしさ」の記憶を間違って上書きしてしまわないようにしたいものです。
正しい「おいしさ」が身についたこどもは、多少、ジャンクフードを食べたとしても、戻ってきます。「ああ、こんなごはんが食べたかった。ほっとする」と。そして、旬の野菜や魚のもつパワーを自分のパワーにするはずです。戻ってくる「おいしさ」の記憶を作るために、「日本人」としての文化や「日本の風土」に沿う食事を用意したいですね。
そして、小さな胃袋を満たすために、「虫おさえ」として、用意しておくことも忘れずに。小さな「塩むすび」でよいのです。外遊びがたくさんできて、おなかがすく日もあれば、ちょっと体調が本調子ではない日もあります。その日の気分を大事にしながら、幼いこどもが食べたい時に満たされるようにしたいと思っています。
よく「ご挨拶のできるこどもにしたい」と、うかがいます。明るく、元気にご挨拶ができることは、とても立派なことです。小さなこどもが、目上の方、あまり面識のない方にご挨拶ができると、周りがぱぁ~っと明るくなるような、晴れやかな空気になります。
どうしたら、そんなご挨拶ができるこどもになるのでしょうか?
何度も繰り返して、「ご挨拶をしなさい」と声をかけてもらったから? ご挨拶をしたら褒められたから? かっこよくご挨拶をしている、お兄さんお姉さんを見てあこがれたから?
どれも、正解のような気がしますし、どれも、決定打ではないようにも思えます。
いちばん身近にいらっしゃるお父さまお母さまの影響が最も大きいのではないでしょうか。誰とでも、気さくに親しくお話しをされている姿。人を尊敬しながら接する態度。人と共に働き、楽しく暮らす様子に接するなかで、こどもなりに、「ご挨拶」の素敵さを肌で感じるように思います。そして、「恥ずかしさ」や「照れ」を乗り越えながら、自らの意志で「立派なご挨拶」ができるように成長するのだと思います。
何気ない「歩く」「立つ」といったふるまいの中にも、「人とぶつからないように歩く」「人の邪魔にならないところに立つ」など、社会性が自然で出るものです。
生理現象の「くしゃみ」「咳」「鼻をかむ」といったことは、誰しも経験のあること。周りの方が不快にならないように、けれども、自分も快適であるように、「感じよく」「心地よく」ふるまいたいものです。
「人と共に生きている」と感じながら人と接することで、ご挨拶はもちろん、生活のあらゆる場面でのふるまいを美しく、安全にしてくれます。はさみを相手に渡すとき、ドアを開閉するとき、ものを運ぶときなど、考えてみたら、大人であれば、当たり前のことですね。
お子さんに「ご挨拶は?」と促す前に、お子さんが「ああ、かっこいいなぁ」と思うようなご挨拶をご両親様がされることが、「ご挨拶ができるこども」になる近道かもしれません。
1歳前後になると、ハイハイから、つたい歩きが始まり、初めて立ち上がった瞬間に感動するものです。赤ちゃんから、幼児への第一歩。そんな時期、足腰の発達ともに、実は、手指の発達も急激なスピードで進んでいます。
床に落ちた小さなホコリを見つけては、つまんでみたり、ティッシュボックスから、次から次へとティッシュを引き出してみたりするのも、この頃です。
「床のホコリを拾うなんて、きたないことしないで!」と悩んだり、「ティッシュがもったいなから、やめて!」と取り上げる前に、ちょっと考えてみてください。
まだ、1年も生きていない幼児に、「きたない」とか「もったいない」という概念が理解できるでしょうか?
または、その概念を伝える時期として、適切な時期でしょうか?
幼いこどもは、ただ単純に見つけたものを拾いあげたい、つまんでみたい、引張り出してみたい、という欲求に駆られているだけなのです。そして、それは、本人も自覚しないような深い本能的な発達の発露なのです。
ずり這いから、高這い、スピードのあるハイハイ、そして、つたい歩き、立ち上がり、よちよち歩き。そして、走り出し、スキップをし、ツーステップがリズムに合わせてできるようになるまで、足腰は、何度も何度も繰り返し、薄皮をはがすように成長を進めます。同じように、手指も何度も何度もつまみ、ひっぱり、つかみを繰り返し、クレヨンを握り、はさみを使い、鉛筆を持ち、箸を自在に使えるようになるのです。一見、大人の目からすると、迷惑なことも、こども自身にとっては、真剣な成長のためのワンステップだと見守っていただければ、素直によどみない成長を、その子のペースで行っていけるように思います。
1歳から小学校就学までの期間は、全身がのびやかに成長を遂げる奇跡のような時間です。そして、その後の生活を支える土台を作る大切な時間でもあります。身につくまで繰り返し行うことで、自分が意識しないでもできるような、自分も周りも気持ちがよくなる振る舞いや、好奇心を膨らませ続けられる自信を育てていきたいですね。
こどもと関わる大人は、こどものやる気と根気の邪魔をしない大人でありたいものです。